■『鎌倉河岸』とは何か?
最近、NHKドラマの舞台ともなり話題にのぼっている 『鎌倉河岸』。
そこがどんな場所だったのか、皆さんはご存知ですか。
ここでは今まであまり知られていない、『鎌倉河岸』のもう一つの顔を少しご紹介したいと思います。
江戸期『鎌倉河岸』と呼ばれていた場所は、現在の東京千代田区内神田1丁目6番地~2丁目2・3番地付近に位置します。
現在は往時の面影などまるでなく、わずかに「鎌倉橋」の名前や歴史説明版などがあるだけで、その歴史性を気にして通る人も少ないようです。説明板にも「徳川家康が江戸城築城の際にその建材として材木や石材を荷揚げしたことから『鎌倉河岸』という名がついた」との説明があるのみです。
実は私どもが『鎌倉河岸』の町名とそこに住む人々に出会ったのは、まったくの偶然からで、従来伝え聞いていた『鎌倉河岸』の様子とは異なる史実にたいへん興味を持ったことに始まります。
平成20年頃から、茨城県内に所在する「国史跡水戸徳川家墓所」の史跡文化財の価値とその保存管理について地方自治体から依頼され、計画書を策定しておりました。
そして、たまたま江戸時代(19世紀初頭、文化・文政の頃)藩の普請方の記録から、墓石注文書の文書を発見し、この『鎌倉河岸』の職人宗右衛門に出会うことになったのです。
現在は非公開である水戸徳川家の歴代墓石を直接見たとき、その墓石の加工から刻印、印字の見事さ、彫りの硬さなど、今はもう受け継がれていないものに強烈な感動を受けました。
問題は、誰がこのような見事な仕事をなし得たのかということです。
高さ3mにも満たない墓石であっても、その石材の切出し、加工から刻印や彫りまで、相当の人数が必要だったことは明らかで、とうてい地元で賄える集団では成り立ちません。
先述の記録によると、石材の切出しや墓所基壇石垣の築造なども別途依頼しているようですが、驚くことに墓石の加工に七千人工もの職人を要したと記されており、その職人には石工はもとより手元職人、鍛冶職人なども含まれていたと思われます。
また、「職人一日米一升、手元米五合」を手配したとも記録されていることからも、その人数は確かです。
『鎌倉河岸』に戻りますが、驚くことはそれだけの職人の手配ができる街があり、職人の集団として公に認められる河岸であり、かつ「職人」の社会的地位として「米一升」を手配されるほど社会に認められていたことに、現在にはない職人社会の仕組みを窺い知れるということです。
この史実は、これまで紹介されてきた『鎌倉河岸』とは違う、大規模な職人たちで形成していた職人街の姿を彷彿とさせてくれます。
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